鳴き沙の
アルフェッカ
1 異邦の子ら -2-
カラヤの腕からクダの実を奪い、呆れた口調でイスタバルが言う。カラヤは構わず物見台へよじ登ると、「五日後だって」とまず言った。
「伝統通り、春雷の夜から数えて五日後に、海神祭の日取りが決まったんだ! つまり海神祭の祭主——今年の勇者を決める前夜祭は、その前日に行われる。遂にその日が来たんだよ! イスタバルも昨日の晩、見ただろ? 海に春雷が走っていくのをさ。俺はダフシャの町中からじゃ見えなかったから、昨日は一人で船を出して、沖合から遠目に、あの光を見てたんだ。イフティラームの春雷はいつだって美しいけど、今年はいつにも増して光が延びたと思わないか? お前とその話がしたくてうずうずしてて、今朝は陽が出る前に船を出して、急いで帰ってきたんだけど、」
「おい、おい、ちょっと待て」
イスタバルがそう言って、それから物見台に立つ他の兵士達と、黙って顔を見合わせる。
「夜に、一人で船を出したって?」
「そのことか。まあ、小舟だけどな」
「あんた確か、首長様の名代として、ダフシャまで春の挨拶に行ってたんじゃなかったのか」
「その通りだけど。あーあ、あと一日早く帰国できれば、イフティラームの浜で春雷を迎えられたのになあ」
「……、もしそこで不慮の事故でも起きてたら、それ、確実に外交問題に発展したからな」
「事故なんか起こすかよ」むくれ顔でカラヤが言えば、イスタバルと兵士達はもう一度顔を見合わせて、深々と、呆れた様子で溜息をつく。春雷の夜とはいえ、ダフシャの海は凪いでいた。第一カラヤの航海手腕はよく心得ているだろうに、何故そんな顔をされるのやら納得は行かなかったが、彼らが過剰に心配する理由も分からないではなかったので、咎めることはせずにおく。
「まあ、カラヤ様が興奮なさるのも無理はない。今年はカラヤ様にとって、十五回目の海神祭だものな」
兵士の一人がそういったのを聞いて、カラヤは大げさに頷いた。
この国イフティラームで最も重要な祭である、海神祭とその前夜祭。これは彼らの祖先の教えである精霊崇拝(アルク・トドロ)に則って、恵みの神である海神に感謝の祈りを捧げる祭である一方、郷の子供達の成人を祝う場でもある。
十五になる民が集められ、その中から祭主を決める。次の夏で十五になるカラヤも、今年は当然この祭の祭主候補として名を連ねていた。
祭主を選ぶ競い合いに、生まれの貴賤は関係ない。首長の後継ぎとして育てられたカラヤも勿論例外ではなく、他の候補者達としのぎを削る必要がある。
だからこそ、カラヤの心はいつにも増して高揚した。
(この日のために、剣も、弓も、銛の扱いも航海も、誰より腕を磨いてきた。絶対に、俺が祭主に選ばれてみせる)
隣に座るイスタバルへ、ちらと視線を送ってみる。この男は目下、カラヤにとって最も強力なライバルであった。腕力だけなら彼より体格のいいカラヤが多少有利と言えるものの、実力は概ね拮抗している。だが様子をうかがうカラヤの視線を意にも介さず、イスタバルは我が物顔で、カラヤから奪ったクダの実にむしゃりむしゃりと齧りつくのみだ。
「イスタバルにとっても、十五の歳の海神祭だ」と敢えて付け加えれば、口数の少ないこの友人は、「ああ」と曖昧に頷いた。
「カラヤ様、そのことなんだけど、……」
「おお、カラヤ様。それにイスタバルも。ここにいたのか」
イスタバルの言葉を遮る形でそう声をかけたのは、カラヤの後から梯子を登ってきていた郷の警備隊長、ミスマールだ。彼は人のいい笑みを浮かべ、太い腕で無頓着に二人の頭を撫で付けると、「首長様に聞きましたよ」と豪快に笑ってみせた。
「カラヤ様は海神祭が終わるまで、仕事は一切おあずけだと言うじゃないですか。そうこられちゃあこの私も、男を見せないわけにはいきませんからな。……イスタバル。お前ももう見張りはいいから、海神祭に向けて肩慣らしでもしてきなさい。カラヤ様にも、手合わせの相手が必要だろう」
人のいい、この警備隊長の提案に、カラヤは大きく頷き、「ありがとう」と礼を述べた。カラヤも丁度、なんとかしてイスタバルを手合わせに誘おうと考えていたのだ。
「海神祭の祭主になる機会を与えられるのは、十五になるその年だけ。カラヤ様も運が悪かったですねえ。同じ年の候補にイスタバルがいるなんて」
イスタバルの才能を見込み、武芸を教え込んだこの男は、にやりと笑んでそう言った。しかしカラヤは気にしない。
「関係ないさ。互いに全力を出し合って、勝利したほうが祭主になる。それだけのことだ。さあ、イスタバル。行こう!」
ひらりと身を翻し、梯子に手をかけたカラヤが声をかければ、イスタバルは苦笑して、「行ってきます」と残りの兵士達に声をかけた。そうして滑り降りるように物見台から地面へくだると、二人してすぐさま、浜の方へと駆けていく。
「おい! ああ見えて、警備隊は忙しいんだぞ!」
「そうか? どうせこの時期、戦う相手は眠気だろ?」
途中、イスタバルが不満げに言ったのを聞いて、カラヤは明るく笑って返す。足元に落ちていた流木を拾い、銛を打つ要領で力一杯投擲すれば、イスタバルは悠々とそれを避け、砂浜に突き刺さった別の流木を手に取った。
「後継ぎ殿と違って、俺は仕事熱心なんでね」
「はあ? ダフシャでの俺の勤労ぶり、お前にも見せてやりたかったなあ」
砂を蹴り上げ、一瞬怯んだイスタバルのみぞおちに、突きを一発食らわせる。しかし手応えを感じたその瞬間、イスタバルが唐突に右足を引いたのを見て、カラヤは思わず眉をしかめた。イスタバルの行動は、カラヤの突きを避ける動きでもなければ、反撃のための動きとも思われない。だが、——
イスタバルの右足が、不意に砂浜を踏みしめる。と同時に、浜に半ば埋もれていた流木が顔をもたげて、イスタバルが踏みつけたのとは逆の端が、カラヤの脛を強打した。
「痛ってえ!」
「まずは俺の一勝、だな。続けるか?」
「当然!」カラヤも拾った流木で一閃を薙ぎ、イスタバルがそれを受け流したのを見て取ると、浜続きの岩場の向こう側へと視線を向けた。そうしてどちらが合図をするでもなく浜辺を駆け、岩場をよじ登り、いつもの場所へと向かっていく。
隠れ浜と呼ばれるそこにはまた小さな入り江があり、その周囲は高い岸壁で覆われている。それを見上げ、岸壁に所狭しと掘られたイフティラームの戦士達の墓、岩窟墓(ロコ・マタ)に向けて、カラヤは握りしめた両拳を、胸の前で一度突き合わせた。イフティラームの郷に伝わる、戦士の礼だ。イスタバルも同じように礼を取り、しかしすぐに流木を構え直すと、カラヤにそれを振り下ろす。
カンカンと木の打ち合う音が、隠れ浜に響いていた。前日の雷の海が嘘かのように、穏やかな浜にはいつもと同じく潮が満ち干きし、春の風が吹き抜けている。