外つ国のゲンマ
序 嘆願
正午の鐘の音とともに、慣れ親しんだその旋律が、遠方から聞こえていた。
人々の憂いをのせた曲。礼拝で奏でられる『嘆きの歌』。近くに設けられた祈りの場から、こちらへまで音が流れているのだ。
よく晴れた日であった。空には一つの雲もなく、影を落とすのは上空を舞うカモメの姿のみ。冷ややかな風が流れ始める、ある秋のことである。だがその日、海に面したマサダの町の施療院にいた者で、穏やかに空を眺めることのできた人間などいなかったろう。廊下にまで敷き詰められたシーツの上には負傷者達がひしめき合い、男のものとも女のものとも知れぬくぐもった呻き声が、そこかしこに響いていた。ある者は火薬で焼かれた顔を覆い、またある者は銃弾の埋まった身体を抱きしめ、辛うじて身動きの取れる者は呆然と、瓦礫の積み重なる町並みを、息を殺して見守っている。
「──今、なんて仰ったんです」
震える声で、呟いた。
施療院の一画、窓際のベッドに腰掛けた青年、トビトの表情からは、すっかり血の気が失せていた。彼の前に立つ男は、しかしこの青年を一瞥するとまた、慈悲もなく、「何度も聞きたいことでもなかろうが」と冷ややかな声でそう語る。
「アカデミーへは、もう戻る必要が無いと言ったんだ。寮の荷物は、追ってお前の所へ送らせる。退学手続きも全てこちらで済ませるから、お前は存分に、怪我の療養に務めるといい。ちょうど良かったじゃないか。もう随分長いこと、故郷に顔も出していないのだろう」
言葉だけを追えば、まるでトビトを気遣うような、その淡々とした物言いに、腹の内が冷えてゆく。暴力をふるわれたわけでもないのに、トビトには、まるで頭を殴られたかのような、目の前が真っさらに白けてゆく感覚があった。
どろりとした絶望が、指の先から入り込み、トビトの身体を染めてゆく。何もかもが失われた。そう思えば気づかぬ内に、ゆるゆると、首を横に振っていた。
嘘だ。こんな薄情なことがあるものか。必死に言葉を探すのに、何一つとして思いは音を紡がない。それでもやっとのことで己の喉を湿らせると、トビトは噛みしめるように、「ですが」と声を絞り出した。
「卒業試験まで、あとたった二ヶ月で……、お願いします、必ず、必ずそれまでに仕上げてみせます。改門派の誇りにかけて、──高位神殿のオルガニストの椅子を勝ち取ってみせます。だから、」
「はあ? 何を言っているんだか」
目の前の男は呆れた口調でそう言って、胸元のポケットから、不意に煙草を取り出した。庶民の文化からは失われて久しいその嗜好品に火をつけ、トビトに煙を吹きかけたこの男は、──片側の眉を跳ね上げて、「たまたま拾われただけの下級市民が」と言い捨てる。
「何を勘違いしているんだ? 改門派の誇りだと。そんなたいそうなものを背負える立場に、一体いつからなった気でいた。今のお前じゃ、正典派のバラクどころか、下位のオルガン専攻生にすら勝てん。今回の襲撃の影響で、集会どころか改門派内はめちゃくちゃだ。お前如きに、これ以上無駄な時間を取らせるな」
「待ってください、誰にだって勝ちます、──勝ってみせます! 僕にはまだこの両手だってあるし、──それに、──それに足だって」
祈りの場から漏れ聞こえるその音が、まるでトビトを責めたてるように、音量を増して聞こえていた。たった十日前にこの地で起きた、凄惨な事件を嘆く人々の声。死者を弔う祈りの歌。悲哀に満ちた歌声と祈りに寄り添うのは、──トビトの耳によく馴染んだ、パイプオルガンの音色である。
必死に縋るトビトを前に、男は二、三言葉を吐き捨て、すぐにその場へ背を向けた。追わなくては。なんとしてでも引き止めて、考え直してもらわなくては。そう考えたトビトは咄嗟に傍らの杖を取り、慣れぬ体で立ち上がる。いや、正確には、立ち上がろうとしただけだ。腰を浮かせたトビトはしかし、すぐさまその場で体勢を崩し、派手な音と共に転倒した。
感じたこともない痛みが、痺れるように全身を巡る。あまりのままならなさに握りしめた拳は、怒りなのか、悲しみなのか、トビトには制御不能な感情に打ち震えていた。
「お前の代わりなぞ、他にいくらだっている」
ちらと振り返った男の視線の先に、トビトの右足がある。
いまだ包帯に血の滲む、膝から下をばっさりと、──切断されたばかりの、右足が。
「それでどうやって、足鍵盤を奏でる気だ。その足が、まるで舞うかのように音を奏でていたからこそ、お前のような下賤の人間にも支援を施してやったというのに──。恨むなら、事件を起こした鉄塊の島民(アトラハシス)を恨め。あいつらに傷物にされなけりゃ、お前の価値は皆それなりに認めていたんだ」
扉が閉ざされていく。その向こうに響くパイプオルガンの音色が、トビトの指の間から零れ落ちていく。
「待って、」
涙に掠れたその言葉は、誰にも届きなどしない。
(約束したんだ、この道で身を立てていくって、……ここで生きていくって。じゃなきゃ、そうじゃなきゃ、)
「──待ってください!」
精一杯の声を上げても、応えはついぞ得られない。痣だらけの腕でようやく体を起こしたトビトは、しばし呆然とその場に蹲り、
声の限りに、絶叫した。