鳴き沙の
アルフェッカ
序 春雷
稲妻が空を駆けてゆく。
雲が立ち込めた夜更けの空に、月は浮かばず星は瞬きすらしない。暗晦とした空に根を張るその光は、瞬時に走り遠く轟き、静かな海へ降り注ぐ。
春雷。ぱらぱらと雹の降る浜辺を歩けば、また不意に、彼の視界に光が割り入った。
この土地で見る、十六回目の春の景色。轟く雷鳴。唸る潮騒。強い潮風は、彼の黒髪を容赦なく掻き乱していく。
「カラヤ様、このようなところにいらしたのですか」
引きずるような足音とともに、老人の声が聞こえてきた。彼の世話役たるジャッドであろう。夜更けの浜辺に一人佇んでいた青年——カラヤが振り返れば、そこには予想通りの老爺と、それから女官達が数名控えていた。
「そろそろ会食のお時間でございます」
伝えられたその言葉に、「ああ」と短く応えを返す。同時にまたひとつ、激しい雷鳴がカラヤの鼓膜を揺らして抜けた。
「見ろよ、ジャッド。今年の春雷も活きがいい。このような時期にお越しになって、御客人方は今頃、恐怖で震え上がっているんじゃないか?」
冗談めかしてカラヤが言えば、ジャッドは軽く目を伏せ、よく蓄えた己の白い髭を撫で付ける。
「カラヤ様。そのようなお言葉、かの国の方々の耳に届けば、冗談では済みませぬ」
「悪態のひとつもつきたくなるさ。宗主国、——ダフシャの人間どもの、あの態度を見ただろう。イフティラームの恵みは全て自分達のものだと言わんばかりの態度を見て、お前はなんとも思わなかったのか」
入り江の砂を踏みしめ、荒れる波へと右手を延べる。それに応えるかのように、雷鳴はまた轟いた。
「昨年の事件を受け、かの国のお偉方も、今回ばかりは皆、神経を尖らせております。今年こそ、……今年の海神祭でこそ、古く騒海の民から勝ち取った祭壇に、イフティラームの民が火を灯さなくては」
老人の言葉に滲む疲労も、決意の強さも、カラヤにはよくよく理解のあるところであった。この国イフティラームにおいて、最大の祭たる春の海神祭。毎年、十五を迎える少年少女が武の腕を競い合い、国一番の勇者と認められた者が、海の祭壇へ火を灯す祭である。
この祭はそれを行うイフティラームの民のための祭でもあり、それを従える宗主国、ダフシャの繁栄を祈るための祭でもあった。カラヤ自身も昨年は、その年の勇者——祭主と認められる為、しのぎを削り武勇を競ったものである。
「わかってるさ。今年は俺も十六になる。誰と競うわけでもなく、祭にはただ、首長の後継ぎとして参加する。……祭がつつがなく執り行われるよう、出来る限りの勤めは果たすさ。今年こそ」
気の乗らないままそう言って、そっと、己の左掌に残る傷跡を指でかきむしる。老人は「ええ」と短く応え、そっと視線を海へと向けると、「昨年のことは」と言葉を濁した。
「イスタバルのことは、……残念でございましたが」
イスタバル。その名を耳にした途端、カラヤの心中はいまだ衰えを知らぬ疑念と後悔の影に燻った。カラヤの親友であった男の名。昨年の勇者として、祭主として、国にその名を残した男、——そして。
「不用意にその名を出すな。郷の祭事に、影を落とした男の名だ。それこそ、かの国の御客人方に何を言われるやら」
有無を言わさぬ口調でそう言い捨て、羽織った布を翻し、颯爽と浜を歩んでゆく。老人と女官達が遠慮がちに後をついてくるのを感じ取りながら、しかしカラヤは彼らに一瞥もくれることなく、日の沈んでゆく水平線に背を向け、政務と裁きの家(トンコナン・ラュク)への道に足を進めた。
「——、既に死んだ人間の名だ」
ぽつりと小さく、呟いた。
季節が一巡した今になっても、あの時のことは知りうる限り、ありありと思い出すことが出来る。親友と慕った男の裏切り、——そしてその死のいきさつを。
「二年続けて祭に障りが出ては、郷の者にも、ダフシャの使者にも示しがつかない。準備を怠るなよ」
「御意に」
老人共が、厳かにそう頷いた。