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鳴き沙の

アルフェッカ

1 異邦の子ら -4-

 忘れもしない六年前、この浜辺で初めて彼に出会ったときのことを、カラヤは今もはっきりと覚えている。海から子供が流されてきた、誰か手当をしてくれと、はじめに漁師の男が言った。どこの子供だ、怪我はどの程度だと、浜仕事をしていた人々が駆け寄った中心に、イスタバルは力なく横たわっていた。
 大人達の足の合間からまず見えたのは、血の気の引いた少年の肌であった。ボロ布と言って差し支えないほどに破れ、濡れそぼったシャツを纏っただけの手足はひょろりと細く、どこもかしこも青痣と切り傷にまみれていた。ふと見れば、その傍らには一枚、破れた木片が打ち上げられていた。
 前日の夜は嵐であった。あの風雨の中、彼はあんな心許ない木片にしがみついて、この浜まで流れ着いたというのだろうか。運ばれてきた布に無理やり包まれ、飲み水を手渡されたその少年は、それでもしばらくの間、一言も言葉を発しなかった。じっと口をつぐみ、拳を握りしめた彼は、——ただ目だけをぎょろりと光らせて、黙したまま居心地悪そうに、周囲に群がる人々の様子を観察し、己の置かれた状況を見定めようとしていたのだ。
 物心付く前からイフティラームの郷で育ち、郷の人々に愛され、しかしそれでも己の生まれに気疎さと所在なさを感じ続けていたカラヤにとって、そうしてあからさまに郷の人々との間に不信という壁を持つ彼は、なんとも自由な異邦人であり、切望した同胞であった——。
 潮騒の音が響いていた。陽の落ちた浜辺の波は、既にカラヤの足を濡らしている。このままにしてずぶ濡れで帰宅などしたら、きっと女官に叱られるだろう。そんなことを考えていると、ふと、深く長い溜息が聞こえてきた。イスタバルの溜息だ。彼はさっさとその場に立ち上がって砂を払い、帰宅の準備を始めている。
「内外に知らしめる、か。まあ、あんたはそう言うだろうな。相変わらず、強気なことでなによりだ」
 やれやれと言った口調でイスタバルが言う。「何か文句でも?」とカラヤが聞けば、彼は腕を組み、眉間に皺を寄せてううんと唸ってみせてから、諦めたようにもう一度、苦笑交じりに長い溜息をついた。
「そうやってあんたはいつも、俺が異郷の奴隷のままでいることを許さない」
 ぽつりと呟くその言葉を聞き、カラヤは「当たり前だ」と眉をひそめる。
「お前を買った元の主人は、六年前のあの嵐の日に死んだんだろう。イフティラームには元々奴隷制なんてないし、お前が奴隷のままでいなくちゃならない理由なんて、ひとつもないじゃないか。お前はもう奴隷じゃない。イフティラームの人間だ。それで、俺の友達だ」
 勢い任せにそう言えば、イスタバルが吹き出した。真面目な話をしているのに、一体何が可笑しいというのだろう。カラヤがしかめっ面でそう問えば、イスタバルは「悪い」と軽い口調で謝罪する。
「変なこと言って悪かったよ。俺はほら、あんたと違って繊細だから」
「よく言うぜ。……なんにせよ、前夜祭では全力を出せよ。手を抜いたらぶん殴るからな」
「わかった、わかった。どっちが勝っても恨みっこなしだ」
 差し出されたイスタバルの、右手を掴み、立ち上がる。二人の頭上には煌々と、夜空の星が輝いている。
「冠座(ゲンマ)だ」
 夜空を指してそう言ったのは、イスタバルであった。
「冠座(ゲンマ)? 初めて聞いた」
「ああ、そっか。イフティラームではそう呼ばないもんな。ほら、あれだよ。『乞食の皿(アルフェッカ)』」
「乞食の皿(アルフェッカ)?」
 耳慣れたその単語を聞き、カラヤが思わず聞き返す。乞食の皿。毎年この時期になると夜空に浮かぶ、欠けた円形の星座のことだ。あと少し星の連なりがあれば、円なるもの、完全なるものと呼ぶにふさわしい形をしているのに、それが欠けているせいで、イフティラームではその星座を、『乞食の皿』と呼んでいる。
「半円を描く七星と、細かな星を繋げてみると、頭にかぶる冠みたいだろ? 三番目の星は特に輝いて、まるで冠を飾る宝石だ。だから俺が子供の頃にいたところでは、あれを『冠座』って呼んでたんだ」
 冠に、乞食の皿。同じ星座を指しているのに、なんと正反対な捉え方なのだろう。その不可思議さにカラヤが感心していると、イスタバルは少し考えてから、「あの星座は、」と呟いた。
「あの星座を見ると、俺はこの隠れ浜を思い出すよ。なんとなく、入り江の形と似てるだろ?」
「ああ、そうだな。言われてみれば。じゃああれは乞食の皿(アルフェッカ)で、冠(ゲンマ)でもあって、隠れ浜でもあるわけか? 随分欲張りな星座だな」
 「確かに」とイスタバルも吹き出した。しかし彼はふとカラヤの方を振り返り、その目をじっと見据えると、「いつか、」と続けてこう言った。
「いつかあんたが首長様の座を継ぐとき、縒り芦の冠をかぶったあんたの隣に、俺も、イフティラームの戦士として立てたらいいな」
「今更、なに言ってんだ? 俺はとっくにそのつもりだったけど。そうだろう? ——イスタバル」
 カラヤが言えば、彼はひとつ、頷いた。
「まずは前夜祭で全力を出しきらないとな。俺が勝ってもあんたが勝っても、イフティラームの海神様達に、ちゃんと認めてもらえるようにさ。それであんたの言う通り、二人揃って、俺達はこの郷の人間なんだって言って胸を張ろう。そうしたら俺も本当に、——この郷の人間に、なれるような気がしてきた」
 イスタバルは、にやりと笑ってそう言った。本心からの言葉であろうと、カラヤの耳にはそう聞こえた。
 
 だからカラヤにはわからない。
 あの前夜祭の日、戦いの時、イスタバルが何故あのような卑劣な手を使ってまで、カラヤを裏切らなくてはならなかったのか。
 そして彼が何故、——あのような死を、迎えなくてはならなかったのかが。

(本誌へ続く)

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